Polnisches Theater Kana aus Szczecin spielte Maerchentheater "Lailonia" in Ryogoku/Tokyo, auf Polnisch mit Untertitel auf Japanisch. Ausser einigen Polen war ich fast die einzige,die gelacht hat. Japaner haben das Lachen verloren??
日本人とポーランド人のユーモアとは違うのかしら?
字幕付だから皆読めるはずなのに、まじめな人ばかりなのか、笑ってはいけないかと思っているかのようだった、、、
..Niemand weiß, wo Lailonia liegt. Es ist nur ein Vorwand, um mit ungezwungener Vorstellungskraft, viel Sinn für Humor und einer spöttischen Frage darüber nachzudenken, wer wir eigentlich sind und wohin wir eigentlich gehen... Die Inszenierung von "Lailonia" erscheint als ein Theater im Theater, welches vor unseren Augen stattfindet. Auf einer leeren Bühne Gestalten ganz in schwarz: Doch mit ihrer Mimik, ihren Gesten, mit Hilfe der Garderobe und einfacher Requisiten erschaffen sie eine Inszenierung immer neuer Erzählungen. Ein bisschen Rückkehr zum kindlichen Theaterspiel auf dem Hof, ein bisschen Kabaret. Umso mehr, als dass diese Interpretation durch intelligenten Witz und Selbstironie besticht ... und die Schauspieler durch Frische und Spontaneität. Das Theater Kana spielt "Lailonia" wahrhaft als Ensemble. Und die ganze Zeit hindurch erlauben uns die Schauspieler, nicht zu vergessen, dass wir hier im Theater sind... Und der Zuschauer wird mehr und mehr überzeugt davon, dass - trotzdem es sich hier um unvollkommene Menschen/Schauspieler handelt, die uns hier eine unvollkommene Welt zeigen wollen - diese Welt wunderbar ist und es sich lohnt, auf ihr zu sein...
2011年12月5日月曜日
メシアン 嬰児イエスに注ぐ20のまなざし
だいぶ前に安田正昭の弾くライヴのCDを聴いて、コンサートで聴けるチャンスを待っていたが
2011年12月5日に其の希望がかなえられた。今回が11回目と言うメシアンの嬰児イエスに注ぐ 20の眼差しは、最初の響きからすでにメシアンの世界を自由に歩いて、独自の響きが広がる。はじめの10曲の後休憩を取るまで、危なげのまったくない暗譜の演奏だ。其の日の朝、手の具合が良くなくてと誰かが言っていた。本人はそのために急遽いつもは使わない指使に変えたりで大変だったかもしれないが、彼をよく知っている人以外はほとんど分からない。とにかく精霊、その他のモティーヴを確実に弾き分け、一曲ずつメシアンの表現したかった20の眼差しの世界を次々と展開し、まるで天空の星をプラネタリウムで眺めているようだった。しばし時の流れが止まったような感覚に自分を忘れた、、
帰りのバスを待っていると、コンサートの帰りで、同じ方向に乗っていく年配の女性と一緒になった。
4年ほど前に聴いたときより響きが芳醇になってと感想を言われ、私も本当にとうなずいた。
この半年に何が起こったのかと思わせるような、充実した大きな音楽を聴けた満足感を味わったのである。
2011年12月5日に其の希望がかなえられた。今回が11回目と言うメシアンの嬰児イエスに注ぐ 20の眼差しは、最初の響きからすでにメシアンの世界を自由に歩いて、独自の響きが広がる。はじめの10曲の後休憩を取るまで、危なげのまったくない暗譜の演奏だ。其の日の朝、手の具合が良くなくてと誰かが言っていた。本人はそのために急遽いつもは使わない指使に変えたりで大変だったかもしれないが、彼をよく知っている人以外はほとんど分からない。とにかく精霊、その他のモティーヴを確実に弾き分け、一曲ずつメシアンの表現したかった20の眼差しの世界を次々と展開し、まるで天空の星をプラネタリウムで眺めているようだった。しばし時の流れが止まったような感覚に自分を忘れた、、
帰りのバスを待っていると、コンサートの帰りで、同じ方向に乗っていく年配の女性と一緒になった。
4年ほど前に聴いたときより響きが芳醇になってと感想を言われ、私も本当にとうなずいた。
この半年に何が起こったのかと思わせるような、充実した大きな音楽を聴けた満足感を味わったのである。
リスト レクイエム 2011年11月18日
2011年11月18日東京ハインリッヒ シュッツ合唱団によるレクイエムの夕べが東京カテドラル教会で演奏された。
なくなった方の霊を慰めるという事で沢山の方の生前のお名前がプログラムに乗っていた。
ここの曲目については後で詳しく記載する事にして、後半に演奏された2011年に生誕200年を祝ったフランツ リストの、初めて聴くレクイエムについて感想を述べたい。
リストのピアノ曲はどちらかというと絢爛豪華といった装飾音が沢山ついて、そうでないものもあるにしても、ヴィルテュオーゾでないピアノ弾にきは手に負えないような感じを受ける。私にとって新しい発見は、リストの宗教性については常に疑問を持っていたことが、このレクイエムを聴いているうちに自分の心がもうすでに天国への道を歩いているのに気がついたときだ。彼の神への信仰の深さ、音楽の真実さ、それらがすべてこのレクイエムに現れているのが聴こえた。大きい星を半分に切ったような形をしたぎざぎざが目の前に現れ、しばらくの間消えなかった。一箇所だけあいていて、ここがおまえの入り口だよといっているようで、、、目をこすっても眼鏡をとっても消えないものが、、、リストの宗教曲を聴くチャンスはまれだ。彼がいかに新しい試みとしてのハーモ二ーを扱い、同じハンガリー人のバルトークを思わせるように、ほとんど無調性で声部を扱って、。が、又瞬間のうちに解決の和音となる。男性4声合唱団、男性4人のソリスト、金管4本、ティンパニ、オルガンという編成がこの曲を支え、引き立てる。私にとってリストの歌曲と同様、今年のリストにおけるハイライトといえる。
出演者: テノール1 ツエーガー ファンダステーネ、テノール2 武田正雄、バス1 淡野太郎、バス2小家一彦 オルガン椎名雄一郎 トロンボーン 武田美生/吉川久/小野加奈代/生稲雅威 ティンパニ 鈴木力、指揮 淡野太郎
なくなった方の霊を慰めるという事で沢山の方の生前のお名前がプログラムに乗っていた。
ここの曲目については後で詳しく記載する事にして、後半に演奏された2011年に生誕200年を祝ったフランツ リストの、初めて聴くレクイエムについて感想を述べたい。
リストのピアノ曲はどちらかというと絢爛豪華といった装飾音が沢山ついて、そうでないものもあるにしても、ヴィルテュオーゾでないピアノ弾にきは手に負えないような感じを受ける。私にとって新しい発見は、リストの宗教性については常に疑問を持っていたことが、このレクイエムを聴いているうちに自分の心がもうすでに天国への道を歩いているのに気がついたときだ。彼の神への信仰の深さ、音楽の真実さ、それらがすべてこのレクイエムに現れているのが聴こえた。大きい星を半分に切ったような形をしたぎざぎざが目の前に現れ、しばらくの間消えなかった。一箇所だけあいていて、ここがおまえの入り口だよといっているようで、、、目をこすっても眼鏡をとっても消えないものが、、、リストの宗教曲を聴くチャンスはまれだ。彼がいかに新しい試みとしてのハーモ二ーを扱い、同じハンガリー人のバルトークを思わせるように、ほとんど無調性で声部を扱って、。が、又瞬間のうちに解決の和音となる。男性4声合唱団、男性4人のソリスト、金管4本、ティンパニ、オルガンという編成がこの曲を支え、引き立てる。私にとってリストの歌曲と同様、今年のリストにおけるハイライトといえる。
出演者: テノール1 ツエーガー ファンダステーネ、テノール2 武田正雄、バス1 淡野太郎、バス2小家一彦 オルガン椎名雄一郎 トロンボーン 武田美生/吉川久/小野加奈代/生稲雅威 ティンパニ 鈴木力、指揮 淡野太郎
Liederabend mit Liszt und Mahler
Für mich war der Höhepunkt des Lisztjahres 2011 die Vokalmusik, nämlich am 5.11. 2011 das Konzert mit Peter Schoene(Bariton) und Olga Monakh (Klavier) im Salon Christopfoli.
Programm
Franz Liszt: Die Vatergruft, Der König in Thule, Wer nie sein Brot mit tränen aß,
Über allen Gipfel ist Ruh
Gustav Mahler: Fünf Lieder nach Rückert
Franz Liszt : Tre Sonetti di Petrarca
Gustav Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen
Franz Liszt: Vergiftet sind meine Lieder, Freundvoll und leidvoll, Dir Fischerstochter,
Es muß ein Wunderbares sein
Vor allem beeindruckte mich die 3 Sonette von Petrarca, die ich bis her nur als Klavierversion kannte. Die Stimme des ryrischen Baritons in seiner Liszt-Interpretation hat mich sehr imponiert.
Auch das Requiem am 18. November 2011 in der Kathedrale in Tokyo mit Heinrich Schütz Männerchor, 4 Männersoli. 4 Posaunen, Pauke und Orgel hat mich fast den Weg zum Himmel geöffnet. Ich war glücklich!
Für mich war sein Komponieren in die Zukunft weisend an Bartok vorbei bis Schönberg und zurück, harmonisch umwerfend schön.
Programm
Franz Liszt: Die Vatergruft, Der König in Thule, Wer nie sein Brot mit tränen aß,
Über allen Gipfel ist Ruh
Gustav Mahler: Fünf Lieder nach Rückert
Franz Liszt : Tre Sonetti di Petrarca
Gustav Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen
Franz Liszt: Vergiftet sind meine Lieder, Freundvoll und leidvoll, Dir Fischerstochter,
Es muß ein Wunderbares sein
Vor allem beeindruckte mich die 3 Sonette von Petrarca, die ich bis her nur als Klavierversion kannte. Die Stimme des ryrischen Baritons in seiner Liszt-Interpretation hat mich sehr imponiert.
Auch das Requiem am 18. November 2011 in der Kathedrale in Tokyo mit Heinrich Schütz Männerchor, 4 Männersoli. 4 Posaunen, Pauke und Orgel hat mich fast den Weg zum Himmel geöffnet. Ich war glücklich!
Für mich war sein Komponieren in die Zukunft weisend an Bartok vorbei bis Schönberg und zurück, harmonisch umwerfend schön.
エチュード エルアイ
エチュードばかりのピアノリサイタル。企画、演奏は福間洸太朗 2011年11月16日 朝日ホール。
えるあいをパソコンに入れたら、得る愛、と出てきた。
それはさておき、アルファベットで二文字Li が日本語になると4文字になる。このLi をリーとは読まずエルアイとしたのは、其のほうが響きがいいし謎めいているからだとのことだ。でも,元京都レストランの女将 N.さんとの会話では、彼女は日本語が書いてあればそちらを読むからと言うことで,
どちらにしても日本でする演奏会だから説明を加えなくってもよく、こだわったのは私だけかもしれない。日本人ならそう読むだろうと言う希望的観測の下に付けた題名かと思ったのだがそうではないらしい。チラシの色を見て欲しいと言う依頼が、飛んでも無いほうに話が飛んで議論をかもし出す。
はじめは何かしっくりしなかった題名もやっとなれて、見れば赤い2文字のエルアイ。その他はデザインとして適当に目だっていいと思った。
もう何度も弾いているリストは危なげなく、私としてはより高度の集中を感じたかったかもしれない、、、
休憩後に演奏されたリゲティのエテュード4曲は、今まで聴いたどの時よりも集中度、演奏の完成度が高かったように思えた。虹以外はシーンが良く見えて楽しかった。超難しいのに贅沢な望みであるが、、、
最後のリプヤーノフは時々、聴いた事のある似たようなメロディが顔を出して落ち着かず?それなりの芸術性を求めないほうがいいのかもしれないが、、、、
さてアンコールの3曲、ショパンーリスト、リストのエチュード狩り、そしてシューベルトリストの愛の使いで、それぞれに終わりに行くにしたがって自由な表現が楽しめたが、最後のシューベルトのリートは私の好きな曲のひとつで、なぜかしんみりと不覚にも涙が出はじめ、あわてて上を向いたのであった。
えるあいをパソコンに入れたら、得る愛、と出てきた。
それはさておき、アルファベットで二文字Li が日本語になると4文字になる。このLi をリーとは読まずエルアイとしたのは、其のほうが響きがいいし謎めいているからだとのことだ。でも,元京都レストランの女将 N.さんとの会話では、彼女は日本語が書いてあればそちらを読むからと言うことで,
どちらにしても日本でする演奏会だから説明を加えなくってもよく、こだわったのは私だけかもしれない。日本人ならそう読むだろうと言う希望的観測の下に付けた題名かと思ったのだがそうではないらしい。チラシの色を見て欲しいと言う依頼が、飛んでも無いほうに話が飛んで議論をかもし出す。
はじめは何かしっくりしなかった題名もやっとなれて、見れば赤い2文字のエルアイ。その他はデザインとして適当に目だっていいと思った。
もう何度も弾いているリストは危なげなく、私としてはより高度の集中を感じたかったかもしれない、、、
休憩後に演奏されたリゲティのエテュード4曲は、今まで聴いたどの時よりも集中度、演奏の完成度が高かったように思えた。虹以外はシーンが良く見えて楽しかった。超難しいのに贅沢な望みであるが、、、
最後のリプヤーノフは時々、聴いた事のある似たようなメロディが顔を出して落ち着かず?それなりの芸術性を求めないほうがいいのかもしれないが、、、、
さてアンコールの3曲、ショパンーリスト、リストのエチュード狩り、そしてシューベルトリストの愛の使いで、それぞれに終わりに行くにしたがって自由な表現が楽しめたが、最後のシューベルトのリートは私の好きな曲のひとつで、なぜかしんみりと不覚にも涙が出はじめ、あわてて上を向いたのであった。
10月22,23日ドイツ滞在50周年記念コンサート
あけましてお目でとうございます。皆様、お元気で新年を迎えられた事とベルリンから思いをはせております。 旧年中はお世話になりました。昨年はドイツに1961年に参りまして50年の節目となりましたので、秋にはベルリンのグリニケ城で2日間、2つの違ったプログラムでコンサートを行いました。プログラムは、一日目はドイツに留学して音楽上での勉強で影響を受けた、又歌曲の勉強を通じて得たもの、そして数多く演奏した作曲家の中からシューベルトを選び、2日目はベルリン大学での生徒の指導を通じて、演奏発表の機会に一番反響の多かったサティの作品からあまり演奏されない、聴く事の少ない4曲を選びました。これで本当に演奏活動をやめようと思ったほど、色々準備上の問題がありましたが、思いがけず皆様からの反響が大きく、又来年も自分に出来ることで演奏の機会を持ちたいと思っています。これが最後という覚悟で演奏する事の大事さを経験しました。これからは今までの演奏と音楽指導を通じて得たものを、何らかの形で聴衆と共に音楽の喜びをもてるようなコンサートにしたいと思っております。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
オペラ パレストリーナ
久しぶりでオペラを観にハンブルグに行く。2011年10月2日
フィッツナーのオペラ、パレストリーナは1960年代の中ごろ、ミュンヘンでみたのが最初で最後であった。何も覚えていないが最後にパレストリーナが夕日に向かって恍惚としているシーンが印象的で、其のころは衣装も茶色の僧衣に白い紐を絞めた僧侶の姿であった。エッセンで教えを受けたデットレフ クラウス先生の奥様に初めてお会いして、其の素敵な立ち姿は今でも目の前に浮かんでくる。
さて、シモーネ ヤングと言う女流指揮者、男性と同じ服装では無いのは仕方がないとして、薄手の生地の黒いパンツスーツは結構あでやかで、オペラの内容とは裏腹に何か聴いているうち体の中にsinnlichという逆の現象が現れて、われながらドキっとしてしまった。
歌手の質は揃っていたが手元にプログラムが無いため、後日配役等書き込みたい。
終わって向かいにあるイタリアレストランに駆け込んだら、シモーネ様が何人かの席を探していた。ボーイに無いと言われてあきらめて、ここのオーケストラでヴァイオリンを弾いている友人の小田切美雪さんに、こぼれるばかりの笑を浮かべてにこやかな挨拶をして出て行かれた、、、
フィッツナーのオペラ、パレストリーナは1960年代の中ごろ、ミュンヘンでみたのが最初で最後であった。何も覚えていないが最後にパレストリーナが夕日に向かって恍惚としているシーンが印象的で、其のころは衣装も茶色の僧衣に白い紐を絞めた僧侶の姿であった。エッセンで教えを受けたデットレフ クラウス先生の奥様に初めてお会いして、其の素敵な立ち姿は今でも目の前に浮かんでくる。
さて、シモーネ ヤングと言う女流指揮者、男性と同じ服装では無いのは仕方がないとして、薄手の生地の黒いパンツスーツは結構あでやかで、オペラの内容とは裏腹に何か聴いているうち体の中にsinnlichという逆の現象が現れて、われながらドキっとしてしまった。
歌手の質は揃っていたが手元にプログラムが無いため、後日配役等書き込みたい。
終わって向かいにあるイタリアレストランに駆け込んだら、シモーネ様が何人かの席を探していた。ボーイに無いと言われてあきらめて、ここのオーケストラでヴァイオリンを弾いている友人の小田切美雪さんに、こぼれるばかりの笑を浮かべてにこやかな挨拶をして出て行かれた、、、
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