今年も後2カ月で終わる。
何か世の中が騒がしく、自然現象が大暴れして人間の力の無さを見せつけられているようだ。
何を目標にしてこの先生きていくのか、自分だけ幸せな気分になるように探していいものか?
2014年11月29日土曜日
ピアノあれこれ
ピアニストは自分の楽器を持って歩くことができず、コンサートではたいていそこにあるピアノで演奏しなくてはならない。
コンサートのホールを選ぶ時に何のピアノが置いてあるかを調べて、納得するか妥協するかになる。
ヴァイオリンでいえばストラディヴァリにあたるスタインウェイ、またはベーゼンドルファーは演奏者の好みによって選ぶことができるが、私個人について言えばタッチと出てくる音の微妙なタイミングがスタインウェイのほうが好きなので、その中でもで特に弾きやすいピアノのあたった時は嬉しいし、指先からしっとりとキイの中に深くはいっていく感触、又が色々な方向に指先を向けて、ほしい音の音色を探す時
の醍醐味は人生を左右するほどの幸せ感がある。
メンテナンスの良いコンサートグランドに触れたとき、その日の演奏はなぜかいつもより一段と深みを増してくるような気がする。
幻のピアニスト レオ シロタ
この名前を私は50年以上もの間、私の恩師故永井進の芸大時代の先生ということで知っていた。
でもその演奏は今と違ってCDはもとより、レコードもその頃は市販されていないので唯名前として知っていただけだ。
ある時このピアニストについての本を友人から借りた。
戦前の日本のピアノ教育に携わって、芸大に在籍のピアノ学生を教えたことなどが書かれてあり、学生と一緒に写った写真の中に詰襟の制服姿の永井先生が見えた。
つい数年前、ベルリン日独センターから案内が届いた。それは「ベアーテの贈り物」という、終戦後に日本憲法が改正された時、女性の権利を向上させる数箇条を新しい憲法に入れることに尽力したベアーテ ゴードン シロタについての映画を観賞するというもので同僚を誘って行った。
その映画のバック音楽が何とシロタが弾くピアノ曲で構成されていたのだった。
ちなみにベアーテはシロタの娘さんであった。
彼女は父親のレコードが野村湖堂の記念館に収集されているのを知っていた、、、
シロタは当時ストラヴィンスキー作曲、ぺトルーシュカのピアノバージョンの初演をしたピアニストである。
ベアーテはその映画の中でこう語っている。
始めはルービンシュタインが初演を依頼されたが、難しいこの曲を練習する気がないということでシロタに託されたとのこと。そんなエピソードも合わせて、当時のキエフから日本を通ってアメリカに亡命する途中で日本に17年滞在したということも分かった。
その時は断片的に、ベートーヴェンのソナタ、ショパンのマズルカ、そしてストラヴィンスキーのぺとルーシュカが記憶に残った。
つい何か月前に又大使館の催し物の案内にこの映画があったので、私はためらわず申し込んだのだ。映画のほかに日本の女性の権利がどんなふうに改善発展したか、又外国、アジア諸国ではどんなふうかのディスカッションがあった。
それは勿論大変大事なことだが、そこで弾かれるマズルカは何とも言いようもない、リズムというか
どこも縦の線が引かれないメロディーの流れの美しさだった。
永井進は日本で初めてショパンのマズルカを全曲演奏したピアニストである。
シロタの生徒であった永井先生に私は中学から芸大卒業まで9年間教えを受けた。
最近私は何をシロタの孫弟子として受け継いだか考えてみた。すぐには答えが出てこなかったが、ワルシャワに何度も教えを受けに行った、戦場のピアニストで名前を知られているオレイニチャックからマズルカも何曲か教えを受けた。
ベルリン芸大で、クラス全員にマズルカを弾いてもらったこともある。マズルカは好きなのだ。
それやこれやでショパンを弾く時、マズルカがいいと聴いた方が言ってくださるとき、ああ私のシロタへのルーツはここにあったのだと今やっと気がついたのである。
でもその演奏は今と違ってCDはもとより、レコードもその頃は市販されていないので唯名前として知っていただけだ。
ある時このピアニストについての本を友人から借りた。
戦前の日本のピアノ教育に携わって、芸大に在籍のピアノ学生を教えたことなどが書かれてあり、学生と一緒に写った写真の中に詰襟の制服姿の永井先生が見えた。
つい数年前、ベルリン日独センターから案内が届いた。それは「ベアーテの贈り物」という、終戦後に日本憲法が改正された時、女性の権利を向上させる数箇条を新しい憲法に入れることに尽力したベアーテ ゴードン シロタについての映画を観賞するというもので同僚を誘って行った。
その映画のバック音楽が何とシロタが弾くピアノ曲で構成されていたのだった。
ちなみにベアーテはシロタの娘さんであった。
彼女は父親のレコードが野村湖堂の記念館に収集されているのを知っていた、、、
シロタは当時ストラヴィンスキー作曲、ぺトルーシュカのピアノバージョンの初演をしたピアニストである。
ベアーテはその映画の中でこう語っている。
始めはルービンシュタインが初演を依頼されたが、難しいこの曲を練習する気がないということでシロタに託されたとのこと。そんなエピソードも合わせて、当時のキエフから日本を通ってアメリカに亡命する途中で日本に17年滞在したということも分かった。
その時は断片的に、ベートーヴェンのソナタ、ショパンのマズルカ、そしてストラヴィンスキーのぺとルーシュカが記憶に残った。
つい何か月前に又大使館の催し物の案内にこの映画があったので、私はためらわず申し込んだのだ。映画のほかに日本の女性の権利がどんなふうに改善発展したか、又外国、アジア諸国ではどんなふうかのディスカッションがあった。
それは勿論大変大事なことだが、そこで弾かれるマズルカは何とも言いようもない、リズムというか
どこも縦の線が引かれないメロディーの流れの美しさだった。
永井進は日本で初めてショパンのマズルカを全曲演奏したピアニストである。
シロタの生徒であった永井先生に私は中学から芸大卒業まで9年間教えを受けた。
最近私は何をシロタの孫弟子として受け継いだか考えてみた。すぐには答えが出てこなかったが、ワルシャワに何度も教えを受けに行った、戦場のピアニストで名前を知られているオレイニチャックからマズルカも何曲か教えを受けた。
ベルリン芸大で、クラス全員にマズルカを弾いてもらったこともある。マズルカは好きなのだ。
それやこれやでショパンを弾く時、マズルカがいいと聴いた方が言ってくださるとき、ああ私のシロタへのルーツはここにあったのだと今やっと気がついたのである。
2014年11月28日金曜日
Brahms
このところBrahmsをプログラムに乗せることが多くて、シンフォニーの4番連弾版をコンサートで弾いたり、唯一の歌曲チクルスマゲローネを合わせ始める事など、素晴らしいなと思いつつ音楽に満たされる毎日だ。
ハンブルグに生まれ、ブラームス協会の会長でもあった、Detlef Kraus先生に3年もお習いしていたのに、余り沢山はブラームスの作品を手掛けていないことに最近気がついた。
シューマンやシューベルトは色々聴いたり弾いたりしてきたのに、これはどうしてかと考えると、何か難しくて入りにくかったということ、それとブラームスを全曲演奏をされていた先生のレッスンが他の作曲家のレッスンとは違って恐ろしく細かく、とても音楽を感じる自由が生まれなかったことだった。
でも今は純粋にブラームスっていいなと思う。なぜシンフォニーの4番を選んだかといえば、はるか以前にベルリンフィルとショルティの棒で聴いた4番が印象的であったこと。そして1楽章の何とも言えない美しい入り方がいつまでも心に沁みついていたからだと思う。
オーケストラバージョンをピアノで弾く時、一人では表現不可能といえるが、二人で手分けすれば何とか響き全体が一つに収まってくれるようだ。
別にオーケストラを再現しようなどとは思わないが、ピアノ音楽とは違った、彼の音楽の大きい表現力と美しさ、それをコンサートホールに行かなくても二人で再現できるという可能性に感激して、何度も素晴らしい瞬間が演奏中に訪れた。
マゲローネのほうは歌もそうだろうけれど、伴奏のピアノがちょっとぐらい弾ける人でもよっぽどさらわないと演奏会には出せないという難しさもあって、なかなか演奏会で聴くことができない。
そんな時ベルリンで10年ほど前に伴奏していたNikolayがMecklenburg Vorpommernのフェスティヴァルで歌うというのを聞きつけ、そのゲネプロと本番を聴くことができた。余りにも私が感激して心を奪われてしまったので、来年の秋にするコンサート、シューベルトの冬の旅をマゲローネにしようと彼に提案され、それこそ天にも昇る心地とはこのことだろう、すっかり舞い上がってしまった。
そこへ持ってきて、大学の同級生だった淡野弓子さんが歌っていたのを思い出し、この度まず半分だけあわせたところ、彼女も涙ぐむほど感激して、一緒にコンサートをしようと提案したのだ。
なんという幸せ、何という偶然、、そして本来は男性歌手が歌うこのチクルスを75歳でデビューしたメッゾソプラノ歌手が歌うというのだ!!
これは話題にならない訳がない。
ハンブルグに生まれ、ブラームス協会の会長でもあった、Detlef Kraus先生に3年もお習いしていたのに、余り沢山はブラームスの作品を手掛けていないことに最近気がついた。
シューマンやシューベルトは色々聴いたり弾いたりしてきたのに、これはどうしてかと考えると、何か難しくて入りにくかったということ、それとブラームスを全曲演奏をされていた先生のレッスンが他の作曲家のレッスンとは違って恐ろしく細かく、とても音楽を感じる自由が生まれなかったことだった。
でも今は純粋にブラームスっていいなと思う。なぜシンフォニーの4番を選んだかといえば、はるか以前にベルリンフィルとショルティの棒で聴いた4番が印象的であったこと。そして1楽章の何とも言えない美しい入り方がいつまでも心に沁みついていたからだと思う。
オーケストラバージョンをピアノで弾く時、一人では表現不可能といえるが、二人で手分けすれば何とか響き全体が一つに収まってくれるようだ。
別にオーケストラを再現しようなどとは思わないが、ピアノ音楽とは違った、彼の音楽の大きい表現力と美しさ、それをコンサートホールに行かなくても二人で再現できるという可能性に感激して、何度も素晴らしい瞬間が演奏中に訪れた。
マゲローネのほうは歌もそうだろうけれど、伴奏のピアノがちょっとぐらい弾ける人でもよっぽどさらわないと演奏会には出せないという難しさもあって、なかなか演奏会で聴くことができない。
そんな時ベルリンで10年ほど前に伴奏していたNikolayがMecklenburg Vorpommernのフェスティヴァルで歌うというのを聞きつけ、そのゲネプロと本番を聴くことができた。余りにも私が感激して心を奪われてしまったので、来年の秋にするコンサート、シューベルトの冬の旅をマゲローネにしようと彼に提案され、それこそ天にも昇る心地とはこのことだろう、すっかり舞い上がってしまった。
そこへ持ってきて、大学の同級生だった淡野弓子さんが歌っていたのを思い出し、この度まず半分だけあわせたところ、彼女も涙ぐむほど感激して、一緒にコンサートをしようと提案したのだ。
なんという幸せ、何という偶然、、そして本来は男性歌手が歌うこのチクルスを75歳でデビューしたメッゾソプラノ歌手が歌うというのだ!!
これは話題にならない訳がない。
2014年3月31日月曜日
ウィンタースポーツあれこれ(呼吸とスポーツ)
先日フェイスブックに投稿されていたブログに、アルペン競技に出場した
ウィーンの選手の話が出ていた。似たようなことをレッスンで指導したり、
自分でも色々試している身として大変面白かった。
競技中に予定外のところで息を吸ったためにバランスを崩して大変なことになるほどには、
音楽の、演奏の世界においてはどこで吸っても危険性はない。
ベルリンで観た、ソチオリンピックからの流れで、フィギュアスケート世界選手権を日本のテレビで見られたのはとても幸せだった。
オリンピックで金メダリスト、羽生結弦の受けるプレッシャー、6位に終わったが素晴らしい演技で日本人を泣かせた浅田真央がどんなふうに
自分に打ち勝って更なる進歩を見せるかというところも興味の対象だった。
最終結果が出て、スケートの細かいルールはわかっていないけれど、心地よく滑れた選手、または真剣さと余裕と共存している選手等、様々だったが、
今まで皆が言うほどに感心できなかった浅田選手に初めて、滑りの技術に負けない芸術性も同時に感じられた。自信と集中と余裕のある優雅さが抜群だったと思い、体の中に息が流れているのが見られ、演技と音楽のリズムが感じられた!!
それ以上にプレッシャーと戦いながら、羽入選手のリングに入る時の緊張した表情には彼の覚悟が見えた。競技だから勝ち負けは問題であるがそこをどうこなすか、ただ競争心のみでは人の心を感じさせる演技は出来ない。フリーで最初の4回転に初めて成功した時、彼は自分に打ち勝ったと感じた。
すべて減点はなく加点がたくさんついて0.33という町田選手とのわずかな差で1位になった。エキシビジョンの時も真剣そのものの滑りと演技にむしろ若さを感じた。
言うのは簡単だが、呼吸を自分の思うようにコントロールするのは至難の業と私は思う。呼吸を整えて、心臓のドキドキするのを調整するのはいまだに良くできない。
鼓動と呼吸が4対1になるといい、ということが言われているのは知っている。
逆にリラックスした姿勢で息が深くはいって行く様になったら、今度はつらい姿勢でも、体に力が入っている状態でも呼吸出来るようにすると、ストレスの時でもあまり破たんを起こさずにすむことがある。
私が大学の頃ウィンタースポーツの3冠王と言われたトニー ザイラーというオーストリア人のスキー競技の選手がいた。のちに彼は映画に出演したりしてその名を広めている。
つい最近、誘拐された子供たちが脱走して捕まえられている所へ彼が山から山へスキーでジャンプしながら助けに行った映画を観た。
(ドイツ留学前、上智大学のドイツ語のグループにトニー ザイラーとよく似た学生がいたが、母親がオーストリア人、父親は京大の教授だった。
女子学生が似ていると言って騒いでいるのを、私は2カ国の血が入っている分、こちらのほうがよっぽど俳優に向いていると思ったものだった。)
2014年2月26日水曜日
ヴァイオリニストに憧れていた作家森瑤子
夕べ、夜中に目が覚めてしまったが、まだいくら早起きの人でも躊躇する3時半、枕元にある本を
手にとってみた。
His Pasta, Her Pastaという、森瑤子と亀海昌次の往復エッセイ集である。
お互いに23歳の時に婚約して、一年足らずで別れたという二人は、それから30年たって友情が育っていた。
その書簡集が交代に書かれている。「おいしいパスタ」という題がついている。
開いたところは森瑤子が自力で買ったヨロン島にがじゅまるの木が2本植えられた話だ。
散歩のとき見かけた木をほめたら、気のいい島の住民が早速根っこからほり起こして庭に植えてくれたという話。なかなか根がつかず段々枯れていってしまうので島でな大事な水をやったり、回復を見守っているというくだりで終わっている文庫本3ページのエッセイだった。
なぜこんな話に私がこだわって夜が明ける迄、思い巡らしたかったかというと、この小説家の本名はぜんぜん違って、このペンネームは彼女がヴァイオリンの学生だった芸大時代、同じ楽器を弾きこなし、おまけに美人でみなからの賛辞を常に受けていた同級生の名前をほとんどそっくり使っているということだ。一字違うのは相手より木を一本増やして「森」としたところ。
彼女はヴァイオリンに見切りをつけ小説を書くようになって、いつの頃かそれが売れだし、自分の希望だった島まで買えて優雅に生活できていた。しかし原稿用紙を一枡ずつ埋めていき、常に締め切りの日に脅かされる生活は、彼女に胃がんという病名を送り若くして命を奪った。
私が芸大のころ、この彼女の憧れていたヴァイオリニストと何回か小さい催し物で演奏をしたことがあった。
ある時演奏を終わってタクシーを待っていると、聴衆の一人だった小柄だが、感じのいいシックなドイツ人が車でさっと寄ってきて駅まで送ってくれるといった。めいめいの連絡先を交換しあった、、、
それから何週間かたって彼女に会ったとき、「実はね、あのドイツ人からお誘い受けて時々映画を見たり、コンサートに行ったりしたの。新井さんはなぜ誘わないのと聞いたら、あの人はドイツ語が出来るからだめです、と言った」とのこと。そしていつの間にかあたしの洋服の色が茶系統になっていたわと言った。私のほうはドイツに行きたくて奨学金を受けるためにドイツ語を夢中になって身に付けようとしていたときだったので、特別やきもちの感覚も起こらずその時は過ぎた。
でも一事が万事、チャーミングなその彼女の周りは男性ファンが常にたくさんいた、、、今で言うファンクラブと言うのだろうか?私はそのとき初めて世の中の仕組みを垣間見たと感じ始めていた。
その感じが人生の4分の3世紀も生きたこの頃、やっとなくなってきているのに最近気がついた。
森瑤子は小説を書いて成功して名声と富を得たのだが、常に心の中には本当は音楽で
成功したかったのよとつぶやいていたのだろうか??
彼女のイグナチオ教会の告別式にはその美人のヴァイオリニストが演奏したと言う記事を読んだ。
夜中におもいがけず、昔々のことを思いだし眠れなくなった。私はその頃から何度も挫折しそうになりながら、ドイツに初めて来たときから53年目を迎えようとしている。そして苦しくても音楽をやめないでつずけていてよかったなあとしみじみ思う今日この頃、、、音楽によってのみ人は至福の時を
与えられることが出来るからだ。
手にとってみた。
His Pasta, Her Pastaという、森瑤子と亀海昌次の往復エッセイ集である。
お互いに23歳の時に婚約して、一年足らずで別れたという二人は、それから30年たって友情が育っていた。
その書簡集が交代に書かれている。「おいしいパスタ」という題がついている。
開いたところは森瑤子が自力で買ったヨロン島にがじゅまるの木が2本植えられた話だ。
散歩のとき見かけた木をほめたら、気のいい島の住民が早速根っこからほり起こして庭に植えてくれたという話。なかなか根がつかず段々枯れていってしまうので島でな大事な水をやったり、回復を見守っているというくだりで終わっている文庫本3ページのエッセイだった。
なぜこんな話に私がこだわって夜が明ける迄、思い巡らしたかったかというと、この小説家の本名はぜんぜん違って、このペンネームは彼女がヴァイオリンの学生だった芸大時代、同じ楽器を弾きこなし、おまけに美人でみなからの賛辞を常に受けていた同級生の名前をほとんどそっくり使っているということだ。一字違うのは相手より木を一本増やして「森」としたところ。
彼女はヴァイオリンに見切りをつけ小説を書くようになって、いつの頃かそれが売れだし、自分の希望だった島まで買えて優雅に生活できていた。しかし原稿用紙を一枡ずつ埋めていき、常に締め切りの日に脅かされる生活は、彼女に胃がんという病名を送り若くして命を奪った。
私が芸大のころ、この彼女の憧れていたヴァイオリニストと何回か小さい催し物で演奏をしたことがあった。
ある時演奏を終わってタクシーを待っていると、聴衆の一人だった小柄だが、感じのいいシックなドイツ人が車でさっと寄ってきて駅まで送ってくれるといった。めいめいの連絡先を交換しあった、、、
それから何週間かたって彼女に会ったとき、「実はね、あのドイツ人からお誘い受けて時々映画を見たり、コンサートに行ったりしたの。新井さんはなぜ誘わないのと聞いたら、あの人はドイツ語が出来るからだめです、と言った」とのこと。そしていつの間にかあたしの洋服の色が茶系統になっていたわと言った。私のほうはドイツに行きたくて奨学金を受けるためにドイツ語を夢中になって身に付けようとしていたときだったので、特別やきもちの感覚も起こらずその時は過ぎた。
でも一事が万事、チャーミングなその彼女の周りは男性ファンが常にたくさんいた、、、今で言うファンクラブと言うのだろうか?私はそのとき初めて世の中の仕組みを垣間見たと感じ始めていた。
その感じが人生の4分の3世紀も生きたこの頃、やっとなくなってきているのに最近気がついた。
森瑤子は小説を書いて成功して名声と富を得たのだが、常に心の中には本当は音楽で
成功したかったのよとつぶやいていたのだろうか??
彼女のイグナチオ教会の告別式にはその美人のヴァイオリニストが演奏したと言う記事を読んだ。
夜中におもいがけず、昔々のことを思いだし眠れなくなった。私はその頃から何度も挫折しそうになりながら、ドイツに初めて来たときから53年目を迎えようとしている。そして苦しくても音楽をやめないでつずけていてよかったなあとしみじみ思う今日この頃、、、音楽によってのみ人は至福の時を
与えられることが出来るからだ。
2014年1月27日月曜日
ベルリンフィルと若い指揮者
話が前後してしまったが、12月6日に、ベルリンフィルの定期演 奏会2日目のチケットが手に入り、北ドイツから吹いてくるという 風に飛ばされそうになりながら駆けつけた。15分前でクロークの 前は長蛇の列。指揮者は32歳の Gustavo Dudamelでストラヴィンスキーの組曲1,2をプログラムの前後にわけて、 シューベルトとベートーヴェンと共に4番のシンフォニーだった。 天気のせいか、座席のせいか、自分の耳のせいかちっとも音が飛ん で来ないし響きが混じらない。まあこんなもんかとあきらめていた が、最後のベートーヴェンのフィナーレ、それも3分の2も過ぎた 時、突然曇りが取れて、オケも棒も一つになっての熱演で、やっと シンフォニーを聴いた気がした。若く格好いいのがもてはやされる メディアの時代かもしれないけど、肝心のことは忘れないでよネと 心の中で呟いてしまった、、、でも次のシーズンから定期会員にな ろう!!
後日談で、一緒に行った友人の話ですが新聞の批評では、プログラムの後半を聴かずに帰った人が多かったが、最後のベートーヴェンは聴き応えがあってそれをのがした人は残念だった、、、云々。ベルリンの聴衆は意外と正直です!ヴィデオで自分のポーズはチェックできても、ホールにどんな風に響くかを自分では聴けないのがすべての演奏家の泣き所
後日談で、一緒に行った友人の話ですが新聞の批評では、プログラムの後半を聴かずに帰った人が多かったが、最後のベートーヴェンは聴き応えがあってそれをのがした人は残念だった、、、云々。ベルリンの聴衆は意外と正直です!ヴィデオで自分のポーズはチェックできても、ホールにどんな風に響くかを自分では聴けないのがすべての演奏家の泣き所
2014年1月22日水曜日
指揮者クラウディオ アバド氏が1月20日朝7時半に自宅で息を引き取られたのニュース、実感がわくまでにしばらく時間がかかった。
ベルリンのPhilharmonie での演奏会のほかにも、Luzernの各国の優秀な音楽家から成り立っているフェスティヴァルオーケストラで、その指揮ぶりを最後は日本で聴いたのは何年前だったか?
しかし私の記憶に鮮明に残っているのは、指揮者というより教育者としてのアバド氏の姿である。
ヴァイオリンを弾く、当時18才ぐらいだった友人の娘さんがアバド氏に演奏を聴いていただけることになって、友人と伴奏者と共にベルリンフィルの大ホールに行った時である。
演奏が終わって、アドヴァイスをくださったが、それは今すぐソリストとして活躍する前に、もっと沢山の室内楽をすると将来大変役立つでしょうとのことだった。
そしてその年のシーズンだったか、または次の年だったか記憶は確かではないのだが、タベア ツインマーマン、ナタリー グッドマンといった音楽家の中に入って室内楽コンサートに出演のチャンスを与えられたのだった。
彼は自分を前に出さず、若い人を伸ばすために沢山のチャンスを与えていられた。
何か穏やかな温かい雰囲気が、その時はホールに満ちていたように記憶している。
そのような日常の生活態度が指揮にも表れていて、聴衆に好まれていたように思えた、、、
2014年1月20日月曜日
95.Geburtstag von Bundeskanzler Helmut Schumidt 95歳の誕生日をを迎えたヘルムート シュミット氏
さて、去年は1度しか書き込んでいない。こんなブログってあるものか、、、
というわけで今年は、フェイスブックに投稿で慣れたところで、こちらに書くことにして頑張ろうか?
私のiPhone4sは現在、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、ポーランド語、そして中国語の7国語が機能辞書として入っている。もちろんドイツ語入力だが、なぜか日本語がない!?
なぜ??
昨日1月19日は尊敬している元ドイツ首相Helmut Schmidt氏の95歳の誕生日だった。テレヴィを付けて偶然、氏のNDRのテレヴィ出演を見ることができた。
中間に中国問題のディスカッションを入れての90分番組だった。アメリカのキッシンジャー氏をゲストに迎えて、かなり凝った番組だった。
中国問題には、現在ニュルンベルグ大学で教鞭をとっているという、ドイツ語の堪能な中国女性がやはりゲストとして招かれていた。美しい女性なのでかSchmidt氏も時々そちらをうかがっていたが(日本でのシンポジウムに30年前かに招かれた時私は赤いスーツを着ていったぐらいだから、、、)だが彼は突然、自分が過去に中国視察した時の事実、皆のあまり知らない中国の歴史をとうとうと述べられ、その理路整然とした話し方にはっとした。中国女性もたじたじというところ。
そして最後に司会者の一人が今日の誕生日に何をプレゼントされたいかと尋ねたら、何もほしいものはないが強いて言えば、ドイツが周りの国々から飛び出して、上から下を見下ろすような状態(Überheblichkeit) になることなく国際間の調和を保ってほしい。あっと思わず声が出た、、、が1日たって気がついたことは彼は自分の国の問題に託して、同じ事を中国にも期待したのではないか??
だって私にしてみれば、日本語の入ってない機能辞書は、いまいち納得できない現在の日本の国際的評価をあらわしているような気がする。
というわけで今年は、フェイスブックに投稿で慣れたところで、こちらに書くことにして頑張ろうか?
私のiPhone4sは現在、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、ポーランド語、そして中国語の7国語が機能辞書として入っている。もちろんドイツ語入力だが、なぜか日本語がない!?
なぜ??
昨日1月19日は尊敬している元ドイツ首相Helmut Schmidt氏の95歳の誕生日だった。テレヴィを付けて偶然、氏のNDRのテレヴィ出演を見ることができた。
中間に中国問題のディスカッションを入れての90分番組だった。アメリカのキッシンジャー氏をゲストに迎えて、かなり凝った番組だった。
中国問題には、現在ニュルンベルグ大学で教鞭をとっているという、ドイツ語の堪能な中国女性がやはりゲストとして招かれていた。美しい女性なのでかSchmidt氏も時々そちらをうかがっていたが(日本でのシンポジウムに30年前かに招かれた時私は赤いスーツを着ていったぐらいだから、、、)だが彼は突然、自分が過去に中国視察した時の事実、皆のあまり知らない中国の歴史をとうとうと述べられ、その理路整然とした話し方にはっとした。中国女性もたじたじというところ。
そして最後に司会者の一人が今日の誕生日に何をプレゼントされたいかと尋ねたら、何もほしいものはないが強いて言えば、ドイツが周りの国々から飛び出して、上から下を見下ろすような状態(Überheblichkeit) になることなく国際間の調和を保ってほしい。あっと思わず声が出た、、、が1日たって気がついたことは彼は自分の国の問題に託して、同じ事を中国にも期待したのではないか??
だって私にしてみれば、日本語の入ってない機能辞書は、いまいち納得できない現在の日本の国際的評価をあらわしているような気がする。
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